フリーランス放射線科医松村むつみ|医療の「あいだ」をつなぐブログ

フリーランス放射線科医、医療ライターしてます。日本の医療者、病院、患者さんたち、病気に関心のある一般の方々の、「あいだ」をうまくつなげるような、そんなブログを目指しています。ときどき社会問題も扱います。

フリーランス放射線科医って、どんなお仕事?

フリーランス医師」という言葉が聞かれるようになって久しいです。もともと、米倉涼子のドラマ「ドクターX」のヒットをきっかけに、その存在がまあまあ広く(?)世間に認知されるようになりました。そういえば今期も、ドクターX放送されましたね! わたしも、放送が開始されるタイミングで現代ビジネスに記事を書いています。

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/67465

 

フリーランス医師、というと、どこの医局にも属さず、颯爽とやってきて颯爽と去って行くイメージですが、実際はそんなに格好いいものではありません。医師というのは、外科医も含めて、基本的には地味でコツコツした仕事です。いわんや、画像診断医をや。画像診断というのは、白と黒の画面を一日中眺め(一部、画像処理により白黒ではない検査もありますが)、せっせと診断レポートを作成し続ける地道な作業が中心になります。患者さんから直接感謝をされることは、通常ありません。

 

 

「わたし、失敗しないので」というのが大門未知子の決めぜりふですが、「絶対失敗しない医療」は基本的には存在しません。フリーランスに限ったことではありません。手術には、決して高い確率ではありませんが合併症が起こることはありますし、わたしたちの分野で言えば、造影剤を用いたCTの検査でも、造影剤によるアレルギーが起こって死亡するという可能性もゼロではありません。また、画像診断の場合、どうしても人間ですので、見落としが発生することがあります。見落としを防ぐために、特に検診では医師2人で一つの画像を「ダブルチェック」したり、そうでない場合は、医師の他に、撮影を担当した放射線技師がチェックするような仕組みになっています。

「わたし、失敗しないので」とは決して言えないので、その代わりに、失敗を極力防ぐような仕組み作りをしている、と、言えます(この点は、フリーランスであってもなくても関係ありません)。

また、高度に専門性のある仕事の場合、上司に相談しなりなどができないことも多いので、フリーランスには、常勤医師よりも安定したスキルや問題解決能力が求められることがあります。

 

 

これは皆さん、わりと興味のあるところのようです。わたしも、何度か、非医療者の方々にたずねられたことがあります。でも、個人的には、それほど興味がない部分でもあります。働き方によるところが大きく、どうしてもフリーランスは自分の時間を切り売りするため、仕事をたくさん詰めこめば収入は上がり、そうでなければそれほど増えない計算になります。また、自分の時間を作りたいからフリーランスになる人もいますが、たしかに、自分の時間の作りやすさでは勤務医よりもフリーランスの圧勝だと思います。

ただ、全く保証がないので、勤務医よりも多少多い額面を稼いだところで、割に合わないものだと思います。お金という観点から、フリーランスをおすすめできるかというと、わたしは普段すすめてはいません。というか、「フリーランスになりたいんだけど」と相談されても、わたしはあまり他の人に自分と同じ道を勧めることはしていません。仕事が不安定になる時期も場合によってはあるでしょうし、コミュニケーションスキルに不安のある方や健康に不安のある方は、医局に属していたほうが「安心」です。好んで不安定な道を行かなくてもいいのではないでしょうか。フリーランスになりたい人は、あまり他の人に「相談」することはなく、条件が整えば黙ってなってしまう、そういうものだと思います。

 

 

独特な存在である「フリーランス医師」ですが、それが「放射線科医(画像診断医)」となると、一体何をしているのか、どんなふうに生活しているのか、なかなか想像がつきづらいのではないでしょうか。そもそも、「放射線科医」という存在が、世の中にあまり知られていませんし、「放射線技師」との違いがわからない、という方も多いんじゃあないでしょうか(そもそも「放射線科医」ってなに? ということはまたの機会に書こうと思います)。

そんな疑問に思っている方々に、わたしの一日を書いてみようと思います。

 

【わたしの一日】

3:30-4:30起床(寝坊して5時になってしまうこともしばしば)。記事や論文の執筆、英語の勉強、その他自分の勉強。

5:30-6:30 朝の読影マンモグラフィMRI、PETなどを自宅で見て、画像診断レポートを作成。

6:30-9:30 子どものお弁当作り、朝ご飯、学校や保育園に行く用意、子どもの送り。

9:30-11:30 午前中の読影。自宅で仕事をする日が多いが、検診施設に行くことも。

12:30-16:30 施設や病院に出かけて行き、読影(横浜や東京。毎日違う施設)。

16:30-18:30 子ども2人のお迎えや習い事。

18:30-20:30 子どもの宿題、晩ご飯、お風呂など。

21:30 子どもと一緒に寝落ち。

 

まあこんな感じでしょうか。一日の多くを読影に費やしていますが、至って地味な毎日です。

「CTとっていたけど癌が見落とされた」が、なくならない理由

定期的に、「CTを撮ったけれど癌が見落とされてしまった問題」がマスコミを賑わせます。正確に言えば、この問題のほとんどは、「CTを撮影し、画像診断医は癌の疑いを指摘したけれど、臨床医が報告書を見なかった問題」になります。画像診断医が、癌を見落とすこともあるでしょうが、それは、証拠をつかむことが難しいので、問題として表に出てくることは少ないです。

 

わたしは以前、この問題について、他のサイトで、

「なぜCTを撮っても医師はがんを見逃すのか?予防策は?」

http://agora-web.jp/archives/2029475.html

 

と、題した記事を書き、とりあえずできることとして、「カルテアラートをつけましょう」と、提案しました。

 

その後、各病院では、電子カルテ読影報告書などでのアラート機能の整備は進んでいます。中には、「余計な手間が増えて、形式的にアラートをクリックするのみで確認を怠っている人もおり、意味があるのか」と、不平を言う医師もいました。たしかに、医師の手間は増え、解決のひとつの方策ではあるものの、「根本的な問題」は、まだ解決にいたっていません。

 

CT報告書見落としの原因としてあげられるのは、

 

  ①医師の人手不足

  ②看護師の人手不足

  ③事務職員の人手不足

 

人手不足、が、三行並んでしまいましたが、これは決して冗談ではありません。医師は、入院患者も軽症、重症を含め10-20人程度、外来患者は1日で30人以上診るのが一般的です。その上で、手術や検査もこなします。これですべての報告書のあらゆる項目を見落とすなと言うのは酷な話です。看護師や事務員に、連絡事項や注意喚起を手伝ってもらいたいところですが、多くの病院はその仕組みになっていません。

 

では、この問題の解決を先に進めるにはどのようにすればいいのでしょうか。実は、①はともかくとして、②や③は調整可能なファクターです。病院からすると、看護師さんのほうが、常勤、非常勤ともに人数の増減を調整しやすく、また、事務員の方に関しても同様です。看護師さんや、事務員の方に、主治医に注意を促したり、連絡をしたり、重要な画像所見がみつかった患者さんをピックアップしておくという業務を担当してもらえばいいのです(画像診断医は、なかなかつかまらない主治医にではなく、事務職員に連絡をすれば万事オッケー、というように)。いちがいには言えないことですが、医師は事務作業が苦手なことが少なくなく(そもそも事務作業の優先順位が低い)、事務作業にかけては、看護師さんや事務員さんの方が断然正確で頼りになります。

 

というわけで、多くの職種の連携でミスを防いでいこうという話です。病院で、他職種の活動の幅が広がるのは、患者さんのためにもなることです。

 

乳癌検診で、「要精査」と言われたら?

最近、いろいろな方の話をきいたところ、乳癌検診で異常を指摘されても、どうしたらいいかわからない・・・・・・という声が意外と大きいことに気がつきました。異常を指摘されると、気持ちも動転してしまいますし、どこを受診するのが正解なのか、どんな診療の流れになるのかわからなくて不安になることと思います。そこで、noteで、乳癌といわれたらどこを受診すればいいの? どんな検査をするの? からはじまり、「経過観察は絶対に行こう!」ということまで書きました。よろしければご一読ください。

 

 

 

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医師は自分の子どもを医師にしたいの?

大学入試センター試験が終わりました。当日は今年も寒くなり、横浜ではみぞれが降っていました。

最近、医学部熱が高まっていることがよくきかれます。少子化で全体の受験生は減っているにもかかわらず、医学部に行きたい人は増えていて、20年前は難易度が低かった私立医学部の偏差値も軒並み上昇しています。

最近は、ドクターXなどの医療ドラマが増えて(わたしは、知人から、子どもがフリーランス医師に憧れているのだけど、実際はどう?なんてきかれた体験があります)、医師という職業が身近になっているのかもしれません。今期は、医療ドラマが特に多いようです。そういえば、最近まで、放射線科の医療ドラマ「ラジエーションハウス」もやっていましたね。

 

また、産業構造の変化や、30年の日本の低成長も、医学部人気に影響していると思われます。医師免許は俗に「ゴールデンライセンス」とも呼ばれ、資格に守られて食いっぱぐれがない、というイメージがあるようです。医師免許で「食いっぱぐれがない」というのは、現在のところはその通りで、依然として医師は人手不足の状態が続いており、供給過多にはなっていません。ただ、厚生労働省の医師需給計算では、「医師の充足」はそれほど遠くない未来にやってくるとされています(以前、メディアに書いた記事でも指摘しましたが、厚労省は一人あたりの労働量を比較的多く計算していたので、近い未来での充足はないのではないか、というのがわたしの見方です)。しかし、今年の受験生が働き盛りを迎える20年後には、医師の充足があるかもしれませんし、また、今の小中学生が働き盛りを迎える頃には、人口減少もあって供給過多にならないとも限りません。また、医療費の増大や、国家の税収などを考えると、医師の給与が今後増える可能性は非常に低いと思っています。ですので、「お金」や、「安定」を目的に医学部に行くのはナンセンスで、「お金がなくても人のために役立ちたい、患者さんに寄り添いたい」という気持ちをもった人だけが医師を志すべきだし、これからはとくに、そうでないと成り立たないと考えています。

 

わたしの同業者の知人たちの子どもたちも、医学部を志望する子、志望しない子、子どもを医師にしたいと考える医師、そうでない医師さまざまですが、今のところ、わが子(7歳と4歳)は、「医師になりたい」とは言っていません。長女は宇宙に興味があり、月に行ってみたいようです。次女は恐竜に興味があるようですが、まだ小さいので、なんとも(笑)。「医者になりたい」と言わない子どもたちに、どこかほっとする自分もいます。わたし自信ブラック労働や過労を経験しましたし、中途半端な決意で目指してほしくはありません。とりあえず、今は、長女の宇宙への夢を応援しています。

「医者でもらう薬は市販薬よりも効く」は本当?

今、風邪を引いています。喉が痛くて体調が悪いのですが、体温は37℃台前半で動けるから、インフルエンザではないのでしょう。市販薬を飲み、今日も画像診断に精を出しています。

 

よくちまたで、「医者で処方してもらう薬は市販薬よりも効く」という話がされることがあります。「医者が処方する薬」「市販薬」の内容にもよりますが、この話がはたして本当なのか、考えてみたいと思います。

 

ひとつは、世の中には、市販されておらず、医師の処方でしか買えない薬が、それなりの数存在しています。極端な話をすれば、例えば抗がん剤は、薬局で買うことはできません。安全性や長期使用の実績などから考えて、市販化して問題ないと考えられた薬だけが市販薬となっています。こうした経緯で市販薬が販売されているので、市販薬には風邪薬や、花粉症などアレルギーの薬、痛み止め、胃腸薬などが多くなっています。

 

風邪薬や痛み止めなど、よく使用する薬で、「医者の処方薬が市販薬よりも効く」ことがあり得るのでしょうか。結論を先に言いますと、「部分的には正しいこともあった」けれど、現在では、市販薬と医者の処方薬で成分が同じものも増えており、成分が同じ薬では、当然のことながら効果は同等である、ということができます。

 

たとえば、病院でよく処方される鎮痛剤でロキソニン(一般名ロキソプロフェンナトリウム)という薬がありますが、ロキソニンは2010年、市販薬として承認されました。それまでは医師の処方箋を通してしか手に入らず、市販の内用鎮痛薬と言えば、アセトアミノフェンイブプロフェンのような、より疼痛緩和作用が「弱い」ものしかなく、「医師の薬の方が効く」というような話は、間違ってはいなかったかもしれません。

 

ロキソニン(市販薬として「ロキソニンS」など)のように、病院で処方されていた薬が、安全性や使用実績などをもとに市販されることを「スイッチOTC」と呼び、スイッチOTC薬は近年増え続けています。そのため、現在では、風邪や花粉症であれば、市販薬でほぼ問題なくケアできると考えて差し支えありません。医師であるわたしも、自分の風邪薬を病院で処方してもらうことはまずなく、風邪で病院を受診することもありません。昔は、同僚などに気軽に風邪薬の処方を頼めたのですが、最近は厳しくなり、仕事を中断して外来を受診しなければならなくなったり、そもそも、画像診断医であるわたしたちには、薬剤の処方ができないシステムになっている病院も少なくありません。また、薬局で処方箋を提出すると、診療科や処方薬剤をみられますが、「放射線科」での処方となると、薬剤師さんから不思議そうな目で見られることもあります。「自分の勤務する病院で自宅用の薬を気軽に処方する」ということは、最近かなりできにくくなっています。医師でも、一般の患者さんとあまりかわらない状況となっており、わたしも今日は市販薬を飲んで、早めに仕事を切り上げて休養したいと思います。

100か0か・・・・・・「白黒思考」をやめよう

わたしたちはつい、物事を考えるのに、100か0かの論理を使ってしまうことがあります。わたしも、物事を白黒つけたいと思うところがあり、なんとなくグレーな領域に物事がとどまっていることは、気持ちが悪いと思うことがあります。完璧主義者の方であれば、その気持ちはもっと強いかもしれませんね。

しかし、医療について考えるとき、「100か0か」の白黒思考には注意が必要で、場合によっては、その思考によってニセ医学に引きつけられてしまうこともあります。

 

よく言われることですが、医療において、「100%」ということはほとんどの場合においてあり得ません。手術が合併症なく終わる確率ももちろん100%ではありませんし、日常的に行われている検査すら、100%有害事象が出ないとは限りません。例えば、造影剤(病気の部分がよく見えるように、血管に入れる薬剤)を投与してCTを撮影する検査の場合、非常に低い割合ですが(100人に1人もいません)、アレルギーにより死亡することがあり得ます。医療では、メリットだけではなく、検査や手術によって起こりうるデメリットも、患者さんに説明しなければなりません。ドクターX・大門未知子の決め台詞のように、「わたし失敗しないので」とは、いきません。

 

「100%の安全」「100%の成功」もし、病院にかかるのなら、不利益が起こりうることはないのだと、安心したい。そういう気持ちはわたしもわかります(研修医をしていた13年くらい前に、麻酔科をローテートしていて、手術の有害事象について説明していたとき、患者さんに、「うまくいかないことがあり得るなんて言うのはもってのほかだ」と、怒られたことがあります。それだけ、確率の問題でも、個人にふりかかってしまうと、その人にとっては百パーセントの現実となりますし、患者さんにとっては非常に重いことです。もっと言葉を選んで説明するべきだったと、反省しています)。しかし、100%はあり得ないというのが現実です。

 

では、医療においてはどんな考え方をするのか、というと、

 

リスク(危険性)とベネフィット(利益)とを秤にかける

 

という作業を行います。ある検査から得られる利益よりも、危険性が高い場合は、その検査は行ってはなりません。ある人が手術を受けるのは、利益(癌などの病気がなおること)が、危険性(手術や麻酔による合併症)を明らかに上回っているからです。また、頭が痛いからといって、すぐに頭部CTをとるわけではありません。問診や診察から、くも膜下出血などの病気が疑われるとCTが必要になりますが、必要ない人にCTをとることは、いたずらに被曝をさせてしまうことにもなります。

 

このように、医療には、結果の不確実性が、多少ともついてまわります。そんな中にあって、「がんが100%治る」などの広告を見たら、わらをもつかむ気持ちで飛びつきたくなってしまう方もいるかもしれません。医療においては、「100%」という言葉は、原則的に使うことができないため、われわれ医療者は、このような「怪しい」広告は、効果のない自費診療を行っている機関のものだと即座に気がつきます。「100%を求める」思考が、ときとして危険であることも、医療を理解する上では重要なことかもしれません。

「医療化」が成功した社会と、個人の選択

どんなときに病院に行くべきか。何か不快な症状があるとしたら、その症状をやわらげるべきか。もっと詳しい検査を受けた方がいいのか。医療には、こうした細かく、しかし重要な「選択」が数え切れないほどあります。もちろん、医療における「選択」の多くは、患者さん側に全面的にはゆだねられてはいません。検査が必要かどうか、検査結果を踏まえてどんな治療が最適なのか。その判断には、高度に訓練された専門家の知識が必要になります。専門家からの説明を聞いた上で、提示された選択肢の中から、患者さんがある検査や治療を理解し、同意することになります。これを、専門的な言葉では「インフォームドコンセント」と呼びます。

 

多くの選択肢から、治療をしないという選択を含めて、何を選び取るべきか。医療が専門化し、高度化した社会では、ひとつひとつの意思決定は個人のリテラシーにより、快適なものにもなれば、困難なものにもなります。適切な選択をするためにはどうすればいいのか。ひとつは、知識を増やすことであるのは言うまでもないでしょう。しかし、知識だけを増やしても、「健康のために○○しなければならない」「あと○キロ痩せなければならない」ということばかりが目標になってしまい、これでは、幸福に生きるための手段である「健康」が目的のようになってしまいます。土台のないところに知識だけを増やしていっても、数値に振り回されるだけです。また、健康不安をあおるテレビなどに際限なく影響されてしまうこともあるでしょう。必要なのは、「自分はどういう人間で、どう生きたいのか、何をすると幸せなのか」という「価値観」を自分で形作ることだと思います。普段から、「どう生きて、どういう形で死を迎えたいか」ということを考える習慣をつけたり、周囲の人と話し合うこともいいでしょう(厚生労働省も、人生の最終段階のケアを家族や医療者と話し合う「人生会議」を推奨しています。ポスターの炎上は記憶に新しいのではないでしょうか)。

 

しかし、筆者が個人的に困難を覚えるのは、これから、「マクロな自分の価値観」を信じられる時代がどれだけ続くのか、ということです。これまでは、死や病気を、哲学的な事柄として扱う面もありました。最近では、遺伝子や化学物質のことが徐々に明らかになってきて、乱暴な言い方ではありますが、人間の「思考」も、脳内伝達物質の産物であると考えられるようになってきています。これまで、医学ではないと考えられていた分野が医学として捉え直され、「診断」や「治療」といった医学の文脈で考えられるようになってきました。こういった事態は「医療化」と呼ばれ、1976年に、ウイーン生まれの思想家イヴァン・イリッチは「脱病院化社会」で、医療が人間社会の多くの事象を決定するようになり、人間は主体性を奪われ、統計学的に管理される対象と考えられるようになったことを批判的に考察しています。今から考えると、随分荒い批評にも見えますが、過剰診療の出現や製薬産業の隆盛も予見している興味深い著作です。

 

わたしは、「医療の発展により、人が主体性を奪われる」とは考えていません。健康になることは、より主体的に生きることを可能にするといえるでしょう。しかし、高度化した医療が生活のあらゆる側面に、とくに意思決定に関わってくるということは、それだけ選択が難しくなるということでもあります。いまや、子どもを産むか産まないかということも、医療による決定がかかわってくることもありますし、今日何を食べるか、何歩歩くかということも「医療」と無関係ではありません。「医療」が深く浸透し、切り離すことが不可能になったわれわれの生活だからこそ、もう一度「マクロな価値観」を見直してみるべきかもしれません。